弥生の暮らし


~ 出逢うも縁、別れるも縁 ~

この季節になると必ず思い出す言葉があります。

『往ぬる1月、逃げる2月、去る3月』

『出逢うも縁、別れるも縁』

もう10年以上も前のこと、娘の小学校のPTA役員時代に、当時の女性校長が仰っていた言葉。年度末のあっという間に過ぎていく慌ただしい時期のことを指し、異動で学校を去りゆく…活動を共にした教員との別れを惜しむ私たちを諭すように教えてくださった言葉です。元々は現国を受け持っていたそうで、物事の成り立ちをきちんと理解されていらして、厳しくいつも凛としている中に温もりを持った美しい方でした。

ネガティブに捉えがちな『別れ』をそう考えなくなったのは、この頃からです。事実、『縁』というのは出逢うことばかりではありません。『縁起』とは禅語で縁を起こす(因)ことを言いますが、良い悪いに限らず、自らが起源を作り出すことで縁ができます。たまたま出逢って、同じ電車にしばらく一緒に乗り合わせ、やがてどちらかが降りていくこともありますし、長く一緒にいる(関わりを持つ)場合もあります。長いから良いかと云えば、腐れ縁とか悪縁もあり、或いはそこに居合わせなかったことで難を逃れるなど、生じなかったことも縁なのです。

先日、岐阜の実家で亡き父の書庫に積み重ねられていた古いアルバムを手にしました。セピア色の写真が丁寧に貼られたページをめくり始めると…、十数冊のアルバムは、まるで私をタイムマシンに乗せたかのように、父母が生まれた頃へと時を引き戻していきます。

父方の祖父は戦死、母方の祖父母は満州で母たちを生み育てたと聞いていました。

新京にて

母の名前が書かれたアルバムの中には、生まれたばかりの母を抱く若かりし頃の祖母の姿…そこに記された「新京にて」の文字。

新京とは、当時の満州(現在の中国長春市)の首都です。ここで祖父母は事業を営み、10年ほど暮らしていたようです。

旧ソ連の侵略によってここでの生活にピリオドを打ち、日本へ引き揚げることになります。幼子であった母と叔母姉妹を抱えた祖父母にもソ連軍の手がかけられたとのことですが、親しくしていた中国人の人々が「この人たちは日本人ではなく中国人です」と口々に護ってくれたおかげで、日本へ無事に帰ってくることができたそうです。

ここでソ連軍に捕らえられたとしたら…祖父は捕虜としてシベリア行きとなり、母子はどうなっていたか…、私がこうして日本で生まれ暮らしている『縁』を深く考えさせられますし、『縁起』という意味では、満州での暮らしの中で祖父母が培った人間関係が、帰還のときの生死を分けたわけですから、どのような結果を招くかは、日々の積み重ねであり生き方そのものの現れなのです。

実家の庭にて
満州にて若かりし頃の祖父

私が2歳の時に他界した祖父の記憶はほとんどありませんが、両親や祖母、叔母に言わせると、私の感性は祖父似なのだとか。私の名前を祖父が付けてくれたからなのか、大した記憶があるわけでもないのに、名前を見るたびに祖父のことを想うのです。祖父の建てた家、祖父の作った庭で季節を感じながら育った私にとって、この時期どこからともなく漂う沈丁花や梅花の香わしさは、今でも変わらず…鼻から脳へと突き抜けて身体中に拡がり、何とも言えない心地よさと充足感を与えてくれます。

アルバムを静かに閉じ、父の書庫に並んだ本の背表紙に目をやると…父の読んだ本が、これほどまでにと思うほど私の本棚と似すぎていて、もう笑うしかありません(笑)

祖父母も父も…形としてはもう存在しませんが、私の中に根付いているもの、息づいているものが多くの『縁』のおかげで今に繋がっていること、遺っていることを確信できた瞬間でした。

3月…

雛まつりで我が子の幸せを願い、3.11に被災地に心を寄せ、お彼岸にはご先祖さまに感謝をする。実際の慌ただしさはともかく、私にとっての3月は手を合わせて心穏やかに『縁』を考える大切なひとときでありたいと思います。

文・写真提供 吉村巳之


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