~ 切なき桜、至福の桜、在るがままに ~
心躍らせながら毎年眺めていた桜の、今年はなんと切ないことか…。生温かな春風に薄ピンクの花びらを小刻みに震わせる桜花が、いつもならドキドキと高鳴る鼓動のリズムと重ね合わさるはずが、今年はどうにもこうにも胸が締め付けられるようにシクシクと波打つように刺さる。
それでも、空の青さを背景に花の房をいっぱいに付けた見事に伸びた枝を見上げます。うつむいたら…、きっと留めている涙がこぼれ出してしまいそうだから、精一杯…精一杯に、仰ぐように顔を上げます。
いつもより少し早い桜の開花の中、大学を卒業した娘が巣立っていきました。彼女が独り立ちしていくことなど、割と平気だと思い込んでいたのですが、思いも寄らなかった淋しさとまさかのロスに困惑しているのは、他でもない私自身なのです。
引っ越し先まで荷物を運びながら何度となく往復する道中、どんなところであろうと満開の花をつけた桜の木というのは、まるでスポットライトを浴びているかのように際立って視界に飛び込んでくるのです。その姿が美しければ美しいほど、際立っていればいるほど…私の心はとてつもなく心細さを感じてなりませんでした。
思い起こせば、幼少のころ実家には亡き祖父の作った桜並木がありました。70~80mくらいの、当時はまだ舗装もされていなかった道路わきに植えられた10数本の桜が、その少し後ろにあった梅の花と入れ替わるように咲きほころぶ4月。今にして思えば、大して何もなかった時代にあんなに美しい桜並木を存分に眺められる心豊かな時間が当たり前にあったことが、子ども心にどれほど贅沢なことか気づきもしませんでした。
ただ、人が多く移り住むようになり、道路の舗装がなされて交通量もそれとなく増えてくるにつれて、長く伸びた枝が邪魔だとか、毛虫が多く付くなどと言われるようになり、私が高校へ上がる頃にはついに伐採されることに…。
いつの季節のことか、もう記憶に定かではありませんが、学校から帰り、切り倒された桜の木を目にした時のあの片腕をもぎ取られたような苦しさとどうしようもない淋しさと切なさがもたらした心の痛みが、傍らにいた娘が居なくなった今再び蘇ったような感覚で眺めた今年の桜。
それでも桜は、いつもと変わることなく花を咲かせてくれたのでしょう。この美しくも短い数日間の開花のために、一年の大半暑さ寒さを受入れ、耐え、静かにそこに佇んでいるのです。花の盛りが至福の時と思うのは、観る側の私たちの都合でしかなく、桜にとっての至福というのはそこに在ることそのものなのかも知れません。
何も望まず、ただ時のままに蕾をほころばせ、花開き、芽吹き、葉を生い茂らせ、枯れてゆくだけ。
やがて春の嵐のような雨風が、噴き出した新緑の若芽に押されてやっとの思いでしがみついていた花びらを容赦なく散らし、吹き飛ばします。私の心の痛みなどお構いなしに…。
来年は、娘の住む街で桜を観よう!新しい場所で観る桜が、私と娘の心に刻まれ、人生の物語のひとつに加えられるはず。
巣立っていった若鳥を静かに見守り、いつでも羽を休められる止まり木…。「希望」を象徴する桜はなんにも云わないけれど、いつの時も寄り添いながら、云われのとおり「希望」を持たせてくれます。
母はそんな桜の木のように在りたいと思います。
文・写真 吉村巳之