Shuichiro Maeda


前田修一郎


千葉大学大学院教育学研究科修了
第一種情報処理技術者
情報セキュリティスペシャリスト

プログラミングとの出会い

親父が高校化学の教諭だったからか、子どものころ理科が好きで、中学生の頃は「ラジオの製作」のような雑誌の記事を見ながら電子工作に夢中になっていたが、他人が作った回路を組み立てるだけでは満足できず、かといって自分で回路を設計することまではできなかった。
次に夢中になったのが、親父が買ってきた、その頃出始めたパーソナルコンピュータだった。やはり最初は、雑誌に載っていたゲームなどのプログラムコードをひたすらキーボードから入力してから実行して遊ぶのだが、その内、プログラムコードを変更する方が面白くなっていった。しかし、当時、標準で使用できたのがBASICというプログラム言語で、思い通りに動作させるというには程遠い実行速度だった。機械語というのを使うと、ものすごい速度で実行できるということを知ったのだが、当時、機械語を出力できるアセンブラ言語は高価で買うことができなかったため、ハンドアセンブルといって、機械語の命令文を手作業で組み立ててプログラムをつくっていたのだが、さすがに手作業ではごく小さなプログラムしかつくれなかった。そんなわけで急速に興味を失い、簡易翻訳支援ツールのようなものを親父から頼まれて細々とプログラミングする程度だった。あるとき、その当時看護婦長だった母が夜勤シフト表をつくるのに苦労しているのを見た親父が、シフト表自動作成プログラムという課題を出してきて、ついに能力の限界を感じてプログラミングから一旦撤退してしまった。

安全性研究所時代(Ⅰ)

何となく時代がバイオテクノロジー華やかなりし頃だったこともあり、高校生物の先生になろうと思い、専門学校や高校の非常勤講師などもやってみたが、よくよく考えたら学校自体があまり好きじゃなかったことに気づき、大学の先輩が役員をやっていた民間の安全性研究所に行くことにした。
私が行った安全性研究所は、医薬品、化粧品、農薬、殺虫剤、食品添加物など、ありとあらゆる新規化学物質の安全性を評価する機関で、最終的に人間に対する安全性を評価するために、最初は細菌や実験動物などを用いて、どういった経路で、どの程度の量および期間曝露すると、どのような影響があらわれるかといったことを明らかにすることを社会的使命としている。その社会的重要性に鑑みて、当該業務は定期的にそれぞれの化学物質を管轄する省庁から直接または間接的に、いわゆる査察を受ける必要があるので、試験方法や環境条件の記録方法などは厳しく定められている。
最初に配属されたのは、臨床検査室だった。血液検査、血液化学検査、尿検査など、実験動物から採取した検体を用いて各検査値を測定するところだ。全自動検査装置などという名前からして、全自動洗濯機宜しく検体を放り込めば勝手に検査値をはじき出してくれそうだが、試薬の調製や機器の校正から始まって、試料検体測定の途中にコントロール検体(測定しようとする試料濃度が既知の検体)を測定して精度管理(QC)も要求される。ただでさえ検体数が多いうえに小動物から採取できる検体量はわずかなのに、コントロール検体の値が精度管理許容範囲に入っていないという理由で再測定が山のようにでる。測定作業は全然面白くなかった。
検査データは、通常、各検査機器から電算室の統計処理用オフコンにオンラインで取り込まれるのだが、一方で、検査データは被験物質を投与されない対照群の検査値を施設の背景値としたり、精度管理にも用いたいのだが、統計処理用オフコンから自由にデータを抜き出すことはできないため、検査室でデータを使用するためには、各検査機器からプリントアウトされた検査値をあらためて手入力する必要があった。手入力した値はもちろんすべて読み合わせして確認した記録を残さなければならない。
検査業務が面白くなくてむしゃくしゃしたので、昔取った杵柄で、検査機器とラップトップコンピュータをつなぐケーブルを自作し、検査データを取り込むプログラムを自分でつくってしまった。
検査データを大量に手にすると、次に、自動帳票作成システムをつくり、電算室で誰も使えずに死蔵されていた世界的に有名な統計計算パッケージであるSASのドキュメントを読み漁り、自分で統計的検定まで行えるようになった。
統計処理用オフコンと同じことをパソコンで実現できてしまったので、すっかり自信がついた私は情報処理技術者試験を受けて、ソフトウェア開発会社に転職してしまった。

ソフトウェア開発

しばらく、大きなソフトウェア開発プロジェクトで開発体制の勉強をした後、大阪にあった安全性試験システム開発ベンチャーに移り、そこで好きな分野で開発を続けられると思ったのだが、まさかの大阪の水が合わず、一年程度で東京に舞い戻って大きな企業の情報システム部にもぐりこんだ。情報システム部というところは、どちらかというと、自分で開発をするというより開発を発注する方だ。莫大な開発予算の稟議をあげたり、業務のシステム化を提案したりして、それなりに面白い仕事だったが、企業風土自体は肌に合わなかったので、前にいた安全性研究所から戻ってこないかという誘いをもらったのをきっかけに、元の古巣に戻ることにした。

安全性研究所時代(Ⅱ)

安全性研究部の部長として、また試験責任者として、組織や安全性試験を責任もって運営する立場となり、ことあるごとに自分の甘さを目の前に突きつけられることも多かったが、一方で、上司である大学の先輩とよく飲み歩いていたので、仕事はきつかったが遊びも充実していた。仕事がきついとバランスを取らないと人間は生きていけないのかもしれない(単なる言い訳)。
業績はそれほどよくなかったが伸びている分野もあったので、リーマンショックで世間が騒がしくなっても自分には関係ないだろうと思っていたら、親会社が投資で大きな損失を出したため安全性研究部はあえなく解散した。まあ、毒性研究者として将来もやっていくのはきついなと考えていたところだったので、今となってはいいタイミングだった。

パリッシュ出版時代

なんとなく、やりたいことはすべてやった気になってしまっていたが、縁あってパリッシュ出版さんにお世話になることになった。
大きな組織で働いているときは、歯車のように与えられた仕事をこなしているだけでもある程度よかったが、小さい組織では自分で仕事を見つけるという側面がより重要になることを学んだ気がする。

フリーランスという働き方

組織に属さないフリーランスという働き方は、まさに自分で仕事を見つけるという働き方だ。
仕事の見つけ方も、ひとそれぞれだろう。
社会のニーズを見つけたり、新たにニーズを開発できるタイプのひともいれば、それらのアイディアを売り込むのに長けているひともいて、さらには、それらのアイディアを実現するために必要とされるひともいて、でも、一つのタイプのひとだけでは決して実現できない。
だから、フリーランスには幅広い人脈が必要だ。
人脈次第では、既存の大企業内の製品開発プロジェクトをはるかに凌ぐ結果を出せる可能性があるこの働き方だが、やはり、ネックになるのは、どうやってそれぞれのスキルをつなげていけるかということだろう。
そんなわけで、このツキヒヨリが構想されたわけだが、これも土屋さんのスキルの一つだろう。このアイディアに共鳴してくれた人たちがつながって、大きな成果があがるのを期待したい。