落合惠子
日本の生活文化しつらい講師
(青山きもの学院)
自宅での華道茶道教室主宰
日本文化に関わるイベント
「きもの散歩(五節句の会)」
「日本酒を楽しむ会」
「街歩き・美術館めぐり」
など、企画・開催
幼少期〜中学時代
1956年4月、大阪で生まれ、父の転勤のため、6歳の時東京に転居。
明治生まれで行儀作法など躾に厳しい祖母とは、生まれてから25年間一緒に暮らす。振り返れば、そのことは性格形成上に大きな影響があったのではないかと思っている。
高校・大学時代
高校時代は、個性豊かで、観察しているだけで面白い同級生たちに囲まれて過ごす。その同級生たちの影響で、他者とは違う自分にできることを探したい、一生続けられる仕事を持ちたい、などと考えるようになったが、今考えると、どんな学部に行けばその先にどんな職業があるかなど調べもせず、のんびりと絵ばかり描いて過ごしでいたわけで、あまりにも呑気な高校生だったと言えよう。
高1から友人に誘われて始めた茶道(石州流)と華道(草月流)の師の、「人生の目標は徳のある人になること」という考え方にも大きく感化を受けた。70代で亡くなってしまわれたが、迷える思春期に出会った先生の言葉は、今も私の心の中で生き続けている。
大学は文学部哲学科に入学し、「美学美術史」という分野を選ぶ。小さい時から絵を描くことも見ることも好きだったという理由から。しかし、すぐに後悔。制度が整備されていなかったため学芸員資格を取得できず、卒業時には、「4年制卒の女子はいらない」と言われ門前払いされてしまうような、オイルショック後の就職難を経験することになった。
卒業・就職・結婚・出産
大学4年生の時、西洋美術史の卒論準備のためフランスへ。本物の美術品に触れることを目的に4週間を過ごす。毎日のように美術館に通う日々だったが、「街の佇まいや日々の暮らしの中にも美がある。それに比べて日本は?」と、カルチャーショックは大きかった。しかし、日本の茶道も華道も生活の中から生まれた美。「日本人の本当の暮らしは違うのではないか?」。当時は、海外の人から「日本人はうさぎ小屋に住んでいる」と言われていた。衣食住の「住」に特に問題があるのではないかと考え、目標を「住宅産業」に絞って就職活動を始めたところ、ミサワホーム株式会社に入社が決まった。「住」に対しての熱が感じられる会社に入社できたことは嬉しかったが、人事課・秘書課など住のデザインとは関係のない部署に配属され、いささかがっかり。会社が終わってからインテリアの学校に通うなどしていた時、母校の大学の研究室で美学美術史系の副手を求めていると聞き、応募。ミサワホームでの2年を過ごした後、大学で副手3年、日本美術史の教授の秘書を2年。そして、私の20代は終わる。その間には結婚をし、実家を離れた。華道茶道を続けていたので着付けを習い、自分できものを着られるようにはなっていた。大学勤務中には学芸員資格も取得し、美術史の先生方・学生さんたちとの交流の機会を持ち、得がたい人生の宝物「知識・経験」を手に入れることができたことは幸運だったと思っている。
30代
20代で具体的方向性を見つけられないまま、子育て生活に入ったことで、仕事を見つけなくてはと一番焦っていたのが30代だろうか。子育てしながら家でできることはないかと、草月流いけばなと恵泉フラワースクールで取得した師範資格を生かして花の教室を開いたり、日本の衣食住に関わるイベントを企画したり、20代で得た知恵や人との繋がりを駆使して、自宅をベースに活動していた。
40代
ミサワホーム時代の縁で、「室礼教室」でアシスタントとして働き始める。「室礼」という言葉がまだ世の中に認知されておらず、積極的に売り込むため、多くのメディアとの接触ができたことは勉強になった。その中で、『いきいき』というシニア向け雑誌を出版している会社と出合い、入社。「きものフリーマーケット」というイベントを手伝ったことがきっかけだった。会社では、イベントやカルチャースクール、店舗部門を担当した。「これからのシニア」について語る多くの人々に出会うことができた。その中でも特に、日野原重明先生の教えは、今も自分の根幹を形づくってくれている。
50代
定年まで、いきいき株式会社で働くつもりでいたが、入社後10年目の時、会社が民事再生となり、次の職場を目指すことを決めた。いきいきの店舗では、「接客」という新しい分野を経験することができたので、それを生かせればと、54才の時に就職試験を受けて、銀座三越リニューアルオープン時に立ち上げとなった、新しいコンセプトの呉服売り場での仕事を得ることができた。しかし残念ながら、3年足らずで57才の時、介護離職し、認知症の実母の在宅介護に専念することを決めた。三越勤務の際は毎日きものを着て仕事をする生活を送ったため、華道茶道や伝統芸能との距離はぐんと近くなっていたし、ありがたいことに、退職後も取引先の方からきものや茶道をベースにした仕事をいただくことも多い。
60代
昨年、母は骨折のための手術と入院を経て施設に入ってしまい、10年続いた在宅介護にも、急に終わりの時がきた。自由な時間がまた手元に転がり込んできた。コロナ禍と戦いながら、さてこれからの自分にできることは何かと考える毎日である。
私の中では、学生時代に体験した海外との比較文化体験の影響がやはり大きい。ただ古いもの、日本のものが無条件で良いというわけではないと思う。そこは自分の頭で考えなければならない。体験を繰り返して発見していくことが大切だ。日本の衣食住に関わる生活文化、残っているものを若い人たちに体験してもらう、伝えていくことは、形を変え、様々な試みを繰り返しながら、続けていきたい。それが、これまで多くのことを教えていただいた先生方、先輩たちの恩に報いるということになると思っている。